【河野原円心駅】 (兵庫県 赤穂郡 上郡町)

【河野原周辺の智頭線】

 千種川の流れが南下して、大きく湾曲する地域が『河野原』であり、智頭線の車窓から、白壁に囲まれた名刹『宝林寺』と新築まばゆいばかりの『円心館』の建物が見える。
 現在では上郡町の北部にあたるが、赤松氏の本拠『赤松』とは、千種川を挟んで指呼の間である。
 赤松円心は、白旗山の山頂には『白旗城』を築き、山麓には『円心屋敷』を構えた。赤松氏にとっては、河野原も重要拠点であった。智頭線の駅名も『河野原円心駅』と名付けられた。
 この河野原に着眼して、赤松山宝林寺を建立したのが円心の三男則祐である。円心亡き後、則祐は総領職を引き継ぎ、播磨守、備前守、美作守に任じられた赤松一族きっての実カ者である。
 足利幕府3代将軍義満は幼少の4歳頃、危難をさけて赤松に身を寄せ、則祐が養育したので、則祐を養父とも慕う間柄である。
 後に都で流行った”赤松ばやし”は義満をなぐさめるため、赤松家の家臣が演じた田舎風流であった。義満が将軍の座につくと、則祐を信頼し、重用したのも当然といえよう。

【白亜輝く新築の円心館】

 宝林寺は最初、備前新田荘中山(和気町)に『雪村友梅』を迎えて、則祐が建立したが、兵火に焼失、文和4年(1355)に河野原に移築した。当時、最大の実カ者則祐が建立しただけあって、宝林寺の規模は現在の河野原全域が寺域であり、山陽道十刹に列されていた。
 則祐は宝林寺の維持には特別に意を用いて『宝林寺規式12ヵ条』『宝林寺条々15条』を制定している。その中に『赤松氏の盛衰は宝林寺の興亡による』とまで述ベている。
 その後、宝林寺は赤松氏の衰退にともない、寺運も衰微。さらに兵火により焼失。その後にできたのが、河野原であり、現在の宝林寺は当初の塔頭『宝所庵跡』である。
 宝林寺に安置されている赤松三尊像、円心・則祐・千種姫の赤松3代の像と雪村友梅像(別法和尚像ともいう)は鎌倉彫刻の作風を伝える貴重な歴史的文化遺産であり、兵庫県指定の文化財である。
このように、河野原は中世の歴史が色濃くただよう地域である。


 このページの【写真】および【近隣の紹介文】(抜粋)は、上郡町の【上郡〜智頭沿線を愛する会】(代表 有田明義氏)が、発行した冊子【ふる里の軌道】”智頭急行沿線探訪” の中から、有田氏の承諾を得て、使用させていただきました。
戻る