【平福駅】 (兵庫県 佐用郡 佐用町)

【利神城跡を望む智頭線】

  『大原 夜で出て 釜坂越えて 花の平福 朝駆けに』と、里謡にまで唄われた佐用町『平福』は、歌のとおり江戸時代には因幡街道の宿場町として大いに栄えた町であった。
 近代に至って、交通体系が大きく変わり、近代化に取り残された感があったが、それがかえって現在の平福の町並み保存につながり、年間、5万人に近い観光客を集める大きな要因になった。

 宿場町平福の歴史は江戸時代の初期、池田由之が佐用郡を領有し、利神山(標高373m)の山項に城を築き、山麓に居館を構え、佐用郡統治の拠点として城下町を形成したことから始まる。
 だが、池田時代の城下町平福も長くつづかず、一国一城令による利神城の取り壊し後には、因幡街道の宿場町に様相を変え、発展していった。
 今も旧街道には古い家並みが軒を連ね、平福情緒が味わえる。さらに街道筋の裏側の佐用川沿いには【川屋敷】と呼ぶ土蔵づくりの家や古い町家が昔の面影を残し、平福を代表する川端風景となっている。

【平福駅近くの『川端風景』】

 次に平福の歴史的象徴といえば【利神(りかん)城】。その歴史は近世山城から中世山城にまでさかのぼる。
 室町時代の初期、赤松一族の『別所敦範』が北方の守りとして、赤松円心の命によって平福に城を築いたのが、始まりである。以来、多くの変遷を経て、近世初頭、池田由之の再築、さらに池田輝政の命による破城と数奇な運命をたどる。
 現在では、池田時代の石垣が山項に延々と続き、400年に近い歳月を風雪に耐えながら、平福の歴史を見守ってきた。山頂の城跡は近世山城の形態をよく残している。
 昭和51年、江戸時代の商家を改造、歴史資料を展示した【平福町立郷土館】をオープンさせたが、その頃より平福を訪れる観光客が増えはじめた。
 郷土館を起点にして、陣屋門・川端風景・六地蔵・宮本武蔵決闘の場などの観光ルートも設定した。
 【観光の町・平福】をめざし、町並み保存や案内板・休憩所・駐車場などの整備も進み、智頭線開通後には遠来の観光客の大幅な増加が期待されている。

 このページの【写真】および【近隣の紹介文】(抜粋)は、上郡町の【上郡〜智頭沿線を愛する会】(代表 有田明義氏)が、発行した冊子【ふる里の軌道】”智頭急行沿線探訪” の中から、有田氏の承諾を得て、使用させていただきました。
戻る